自分の感受性くらい。

京都ではんなりとモラトリアム謳歌中の文系院生女子が送る、とりとめなく思うことなどなど

言葉って自分が思ってるよりたぶん1000倍くらい大事って話。

 

 

 

言葉をたいせつにすることはとても大事なことだと思う。

いや、そんなのんびりした言葉で表現している場合ではないほど多分ものすごく死活的に重要なことだと思う。

ここでいうたいせつにする、ってのは、言葉を正確に使うっていうことを言っている。

 

 

でも悪気無くふわっとした言葉を使っちゃう時って、たぶん誰でもある。

ニュースとか新聞にだってありふれてるし、広告なんてほとんどそうじゃないかとも思う。

「日本と世界の架け橋」とか、

「グローバル人材」とか、

イノベーションで未来を作る」とか、

「国民的な議論が必要」とか、

まあなんとなく言いたいことはふわっとわかるけど、

うん、それって結局どういうこと?みたいな。

 

こういうのっていわゆるマジックワードってやつの一種で、これを聞くとなんかもうそれ以上つっこみようがないというか、なんとなくつっこんじゃいけないような空気を感じるというか、そんなこんなで使うほうも使われるほうも考停止に陥っちゃうというか。

 

いや、ほんとは「私は世界で活躍できる人になりたいんです!」とか聞くと、「え、『世界』って何?『世界』っていう国とか地域はないよ?範囲広すぎでしょ、なんならもう日本も世界の一部でしょ」とか言いたくなってしまうのだけど、さすがにそれを言うと「空気読めない論理性アピールしたいだけの揚げ足取りのバカ」みたいに思われること請け合いであることはさすがにわかる。

 

なのでよっぽどその人に恨みでもない限りは、「あ~なんか定期的に外国に出張したり駐在したりして競争的な環境で外国人と一緒にバリバリ働きたいみたいなそんな感じかな?」とこっちでなんとなくの解釈をして「うん、いいんじゃない?」とか言ったりする。まあでもその解釈で多分大体合ってるんだと思う。

 

でもでも、やっぱり心の中ではもやもやが残る。

「あなたのいう『世界』が『どこかの外国』を指しているとして(まあ多分欧米系のどこか)、そこで働くということはつまり『どこかの国』の『どこかの地域』の『どこかの地区』(それが複数あるとしても)にあるどこか特定のオフィスで日中勤務して、その近辺のアパートに帰り、1か月のうち20日以上を半径5㎞以内の生活圏内で暮らすことを高確率で意味しているはずよね?たぶんそれって日本でもたぶんやってることは同じで、要は同じようなことをどこでやるかってだけのことじゃない?まあそれを外国でやりたいならそれはそれで別にいいと思うけど、そのことを『世界で活躍する』っていう言葉で表現してしまうと、その実態と言葉から受ける印象にギャップがありすぎてなんだかなぁ。」と、やっぱりもやもやしてしまうのだ。

 

わたしだって、そういうふわっとした言葉を使う人が「相手に実際よりいいイメージを与えたい」とか「こいつをうまいこと言いくるめたい」とかよこしまな気持ちを抱いているわけではないことくらいわかっている。それにわたしだってふわっとした言葉を使ってしまう時はある。もちろん悪気はない。

でもどういうときに使ってしまうんだろう、と考えてみると「自分でもよくわかってないけど具体性や根拠のないイメージを伝えたい時」とか、「どういっていいか分からないけどなんとなくきれいにまとめたい時」とかが多いように思う。それってやっぱり思考停止している、ということなんだと思う。でもそれが批判されることはあまりない。日本には、日本語にはなんとなく、そういうふわっとした言葉でも許されてしまう空気みたいなものがあるのかもしれない。

 

だとするとふわっとした言葉はやっぱり危険だ。知らず知らずの間に思考停止して、思考停止していることにも気付かないまま、いつかその言葉の抱かせるイメージによって思考が間違った方向にいってしまう可能性があるから。

 

行間に意味を込めたりとか婉曲的な表現を多用する和歌とか俳句とか日本文学とかは、とっても美しいと思うし大好きだけど、その前提となっている日本語も気に入ってるけど、やっぱり人には論理的に考えたり伝えたりしなければいけない場面があるとしたら、誰かに解釈を任せてはだめで、最後まで自分で考えてできたものを正しく言葉で表現すべきだと思う。

 

言葉はただ相手に伝えるためだけじゃなくて、自分の思考にも大きく影響を与えるものだからこそ、丁寧に正確に大事に使うことを心掛けたいなっていう、話でした。

 

ブログでこんな長文書いたの初めてかも。笑